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私たちのこと

基本理念

みはらし、いいね。

社会福祉法人見晴学園は、1957年に、児童福祉施設としてスタートしました。
箱根のふもとに建てられた施設には、知的障害のある子どもたちが32人入所、1971年には成人施設「見晴寮」も定員50人で開設されました。

今では「箱根西麓三島野菜」の産地として知られ、「三島スカイウォーク」という日本一長い大吊り橋がある観光地、というイメージもありますが、山の中に隔離されたように建つ障害者施設、という印象もまだまだ残っているかもしれません。

後述の「沿革」にあるように、見晴学園は、時代と共に変化してきました。

県からの要請を受け、障害のある子どもたちが通う小学校、中学校、養護学校の見晴分校ができ、在宅支援事業としてデイサービスや療育相談部門ができるなどの過程を経て、障害のある人たちの成長とともに支援内容を広げ、2003年に児童福祉施設(知的障害児)見晴学園を廃止して、児童施設としての機能を閉じることになりました。

現在は、障害者支援施設(施設入所支援・生活介護)、グループホーム、ショートステイ、生活介護事業所(通所型)、就労継続支援B型事業所、相談支援事業所を運営しています。

基本理念は、 一人ひとりのおもいのために
~共に笑い、共に歩む~

まさに、見晴学園の子どもたちや家族の「おもい」のために、その時代、時代でどんな支援ができるかを考え、共に育ち、共に歩んできた施設です。

ひと昔前には、人里離れたところにしか建てられなかった入所型の障害者支援施設。
最近では、障害のある人も、できる限り生まれ育った地域で、必要な支援を受けながら暮らしていくべきだ、という「地域移行」という考え方が広まってきました。
市街地には、障害者向けグループホームが増えてきています。
確かに、自宅から近い住宅地、市街地で暮らしていける社会のしくみは必要です。

では、市街地から離れた見晴学園は、これからどんな施設になっていけばいいのでしょうか。

正解はわかりません。答えは1つではないと思うのです。

でも、そこに「おもい」がある限り、守るべきところは守り、変わるべきところは変えながら、やはり利用者さんと共に、笑い、歩んでいく施設でありたいのです。

障害のない人たちに、市街地ではなく、山や海の近くで暮らす人たちがいらっしゃるように、障害のある人も、山派、海派がいらっしゃると思います。
生まれ育った家、親元を離れても定期的に会える、人が少ない山や海の近くで暮らす方が落ち着く方もいます。

特に、障害特性により、大きな声を出してしまう人、人が多いと強いストレスを受ける人や、そのご家族が、近所の方に気兼ねなく過ごせる場所も必要で、親の病気や死亡によって、緊急な入所支援を必要とする方もいらっしゃいます。一時的に家族、家庭環境から離れて強度行動障害のパターンを外したい方もいらっしゃいます。

見晴学園には、そんな方たちが安心して過ごせる「居場所」としての使命があります。

箱根のふもとにありますが、三島市という地域の一員です。

市街地以外の地区も含めて「地域」と認識していただけたら、市街地・市民の方々とのつながりを持てるように工夫できたら、広い意味での「地域移行」が実現するのではないでしょうか。

利用者のみなさんの生活を豊かにする「絵画療法」を1995年から続けている見晴学園。
その実績を活かして、絵画作品の公開、イベント、商品の販売、施設見学などで、もっと地域のみなさんに知ってもらい、足を運んでもらえるような場所になれたら。

「みはらし、いいね。」
「見晴らしのいい場所、風通しのいいオープンな施設だね。」


と言ってもらえたら。
そんなおもいで、これからも、利用者さんとその家族を支援し、共に笑い、歩んでいきたいと思います。

施設見学、イベントや商品コラボのご相談など、どうぞお気軽にお声掛けください。

沿革

1955
児童福祉施設「見晴学園」の設立決議(静岡県東部民生委員常務委員会)
1956
「見晴学園」設立発起人会開催。佐藤喜作、初代理事長就任
1957
児童福祉施設「見晴学園」設置・事業開始(定員32人)社会福祉法人に
1958
園内に三島市立坂小学校・坂中学校見晴分校、開校
1960
「見晴学園」入所定員52人に
1966
「見晴学園」入所定員60人に
1971
知的障害者更生施設「見晴寮」設置・事業開始(定員50人)
1972
社会福祉法人函翠会に改称
1979
「見晴寮」入所定員80人に
1980
三島市立坂小学校見晴分校、錦田中学校見晴分校を静岡県へ移管
静岡県立沼津養護学校見晴分校開校
1993
東部児童相談所の在宅支援事業、デイサービス及び療育相談部門開設
1995
絵画療法スタート
2001
知的障害者グループホーム「カザマホーム」事業開始(定員5人)
2002
静岡県立沼津養護学校見晴分校閉校
2003
児童福祉施設(知的障害児)「見晴学園」廃止
知的障害者授産施設「見晴授産園」設置・事業開始(定員入所50人・通所10人)
2004
「見晴授産園」通所定員を20人に
2005
「見晴寮」建て替え
2008
社会福祉法人見晴学園に改称
障害者支援施設「みはらしの丘」事業開始
=施設入所支援(定員40人)生活介護(定員60人)・就労継続支援B型(定員20人)・ショートステイ(定員4人)
障害者支援施設「みはらしの里」事業開始
=施設入所支援(定員80人)・生活介護(定員80人)・ショートステイ(定員4人)
ケアホーム「やまと」「なでしこ」「かざま」事業開始
2014
相談支援事業所「ふぁいん」事業開始
「やまと」「なでしこ」「かざま」ケアホームからグループホームへ名称変更
2018
生活支援介護事業所「そおれ」(通所定員20人)三島市東大場に設置・事業開始
相談支援事業所「ふぁいん」三島市東大場に事業所移転
2019
グループホーム「かりん」(定員5人)事業開始
2023
生活介護事業所「佐野あゆみの里」(通所定員30人)三島市より指定管理で事業開始

メッセージ

見晴学園の理事長に就任したのは2012年、大先輩でもあった前理事長からの依頼をお受けしたことが始まりです。
障がいのある方が利用される社会福祉法人の理事長として、「さんしん」で培ってきた経験を活かした経営の提案や職員との協働も、変化し続ける障害福祉サービスの大きな潮流に飲みこまれながら流れる一枚の葉のように、時に厳しさを感じます。
ニーズの変化、人口減少に伴う働き手の減少、権利擁護の在り方や、福祉業界への参入法人の多様化、社会福祉法人の意義、そして、新型コロナウイルスをはじめとする感染症への対応など、課題は尽きず、常にそれらと対峙しながら利用者の方々の生活の在り方を考え続けています。
金融互助制度(のちの信用金庫のはしり)を説いた二宮尊徳(金次郎)は、そのすぐれた発想と実践力が小田原藩の家老に認められ、その手腕により、財政再建・農村復興の仕事(報徳仕法)にまい進します。彼の思想や方法論「報徳」は、「万物にはすべて良い点(徳)があり、それを活用する(報いる)」という思想で、長年「さんしん」を経営してきた時の「自利・多利」の理念でした。これは、現在の障害福祉全般にみられる数々の課題を解決に導く糸口かもしれません。
13年目を迎え、その間には自身の体調を崩すなどの大きなトラブルも乗り越えてきました。これからも関わる皆さんの力を借りながら、困難な状況に立ち向かっていきたいと思います。

やさしさあふれる元銀行マン 理事長 大村 俊之

芸術学部で彫刻を学んだ私が、福祉の世界に飛び込んだのは、「教員免許を生かし、学校で働きながら制作活動を続けられないか?」と、見晴学園を学校だと思いこみ面接を受けたのがきっかけという、なんともかっこ悪いプロローグです。
それから、あっという間に32年がたってしまいました。
就職当時、運動会ではお弁当を口いっぱいにほおばり、元気にグラウンドを走っていた利用者さんたちも今は70代、80代になり、日々の楽しみ方も変わってきています。それに合わせて支援のあり方も変えてきました。自分らしく楽しく過ごせるよう、絵画療法を始めたのが1995年。利用者さんの表情、表現は、美術を専攻してきた自分でも「うわあ、この人たちにはとてもかなわない! うらやましい感性、才能だ! 絵を描くの辞めたくなるなあ」と衝撃を受けるほどすばらしく、今も日々、感動を与えてくれます。
利用者さんと共に過ごしてきた歳月は、世の中の変化、ニーズの変化などにより、常に私に新たな目標を与え続けてくれました。それは、私自身の生き方を考える大きなヒントにもなっています。
こんなにも生きることとは?人間とは?と悩んだり笑ったり感動したりできる職場はなかなかありません。これからも、利用者さんと向き合い、利用者さんと共に、思い出を重ね、見晴学園でのエピローグを誇らしいストーリーにできるよう学ばせてもらいます。

アートで福祉を描く人 常務理事 高井 昌弘

施設一覧

見晴学園は、三島市内に、障害者支援施設(入所・生活介護・短期入所〈ショートステイ〉)、就労継続支援B型事業所、グループホーム、生活介護事業所、相談支援事業所を運営しています。

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